こんにちは。
ありがとうで送るお葬式®
家族葬のウィズハウス新宮・ベルホール中本・ザ・スランバーズガーデン・そうそうの郷太地を運営しております中本葬祭の山下です。
ご訃報を受けて病院等にお迎えに上がらせて頂き、故人のご自宅に安置させて頂く場合に多く聞かれることがあります。勿論、役所の手続きはどうすれば良い?ですとか火葬場の予約等の事務手続きなどもそうですが
(※ 役所への死亡届の提出や火葬場の予約は中本葬祭が代行させていただきますのでご安心くださいね)
「お仏壇は四十九日が過ぎるまで扉を閉じておくのですよね?」というご質問です。今回は、こちらのご訃報があった場合、お仏壇の扉は四十九日が過ぎるまで閉じておかねばならないのか?といった事についてご紹介させていただきます。
四十九日まで仏壇の扉を閉めておきなさいという理由
実際にご自宅等にお伺いした際に、前述のご質問を受けたときには特に年配の方から「そうそう!お仏壇の扉は四十九日まで閉めておくものだから」といったお言葉が横から入ってくることが多いです。ですが、そもそもこの考え方は神道の考え方であり、仏教においては実は『お仏壇の扉は閉じないほうが正しい』のです。
神道は人の死を穢れとしており、それを嫌いますので半紙を貼って封印し、忌明けまでは神棚封じを行います。恐らくこれと混同されてしまって「仏壇を閉めなさい」という話になっているのではないかと思われます。
仏教は仏様のお導きによって浄土へ向かうというのが葬儀の形式になりますので、仏様は隠さないほうがやはり良い考えられます。
神仏混同の考え方の起源などについて
もともとは神仏混合でお祀りされていました。一例を挙げますと神社に仏像をご神体としてお祀りされていたりなどです。
しかし、こうした神仏混合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきりと区別させる神仏分離令(神仏判然令)を慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発しました。これにより政府は、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じました。神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったのですが、これをきっかけに全国各地で寺院や仏具の破壊が行なわれました。このことで歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失わてしまいました。
地元のお話をさせていただきますと、現在の那智山にあります青岸渡寺様はその前身は「如意輪堂(にょいりんどう)」という名称で、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場でした。この神仏分離令により、熊野三山の残りの2つである、熊野本宮大社や熊野速玉大社にもかつては仏堂が存在していたのですが、いずれも取り壊されてしましました。しかし、如意輪堂はそれを逃れ、後に信者の手によって現在の「青岸渡寺」として復興されました。また、寺号は豊臣秀吉が大政所(おおまんどころ ※摂政・関白職にある公卿の母親に対して、天皇から贈与される尊称である「大北政所」の略称)の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言う説があります。青岸渡寺には豊臣秀吉から寄進された大鰐口が本堂に吊り下げられています。直径1m35cm、重さは450kgもあり、日本一の大きさであると言われています。この大鰐口は参拝の際に実際に鳴らすことも可能ですから、是非参拝に行かれた際には本堂に吊るされている大鰐口にもご注目ください。
話が脱線してしまいましたが、このような歴史があったわけですが、とはいえ長い間、その土地で信じられてきたものが慣習となっている事も多々ありますので、考え方としてはお仏壇の扉は四十九日までの間もやはり開いていたほうが正しいと言えると思いますものの、もし前述したように年配のご親族の方や地域の目上の方からそのようなアドバイスがあった際には、そうした方の立場を鑑みて、波風を立てないような配慮も必要と言えるでしょう。
この記事の著者:(株)中本葬祭/施工部 山下 浩司