中本葬祭ブログ

続葬儀の歴史を振り返ってみましょう【明治~大正時代編】

2019/09/10

こんにちは。

ありがとうで送るお葬式®

家族葬のウィズハウス新宮・ベルホール中本・ザ・スランバーズガーデン・そうそうの郷太地を運営しております中本葬祭の裏東です。

前回に続いて、葬儀の歴史を振り返ってみたいと思います。

今回は明治時代~大正時代までをご紹介させていただきます。

 

明治時代~大正時代の葬儀について(1868年~1926年)

 

明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、明治5年には法律によって自葬祭が禁止されました。これにより、葬儀は全て神主や僧侶によって行われることになったのです。

また、明治初期は仏教の排斥と神道の推奨から火葬禁止令が出され、火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬を希望する声が多かったことに加え、そもそも土葬用の土地が枯渇してきたことから、火葬禁止令は2年で撤回されることになりました。その後は衛生的な観点等から火葬が義務化されるようになりました。

また、この頃から欧化の影響を受け、喪服が白から黒へと変化していきました。

もともとの喪服は黒ではなく白だったのですね。

 

神社仏閣の女人禁制廃止(明治5年3月)

これまで神社仏閣では女性の登山参拝が禁じられていましたが、この禁制の廃止が布告されました。

 

西洋式火葬場の誕生(明治9年6月)

小塚原の火葬場に西洋式の火葬炉が完成する。現代の火葬炉にかなり近い、現代の火葬炉の始まりですね。

この火葬場は、後の明治20年に日暮里に移転されました。

 

「墓地および埋葬取締規則」の公布(明治17年10月)

 10月4日、「墓地および埋葬取締規則」が公布され、死体は死後24時間経過しなければ埋火葬できないと定められました。

 

大正時代に入ると霊柩車が庶民の間でも使用されるようになり、輿を使った人力での葬送は徐々に見られなくなっていきました。こういったこともあり、現代の葬儀の原型は大正時代の頃にできたと言って差し支えないでしょう。これまで寺院で行なっていた葬儀を自宅で行うようになり、葬儀と告別式を同日に行うようになったのもこの時代からです。明治時代の頃の葬儀における価値観としては、祭壇の規模や参列者の数というよりは、葬列の規模の大きさがその葬儀の規模を測るという価値観だったようです。明治時代に葬列の際に行われていた豪華な輿を使った人力での葬列も、道路を塞いでしまうという苦情が相次ぎ、代わりに霊柩車が用いられるようになったのが霊柩車が使用されるようになったきっかけとなりました。


このように人々のその時代ごと価値観や生活様式等から、葬儀の形というのはずっと同じではなく、その時代ごとに変化していき、長い年月を経て今の葬儀が出来上がったのです。

如何だったでしょうか。

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この記事の著者:(株)中本葬祭/美粧企画部 係長 裏東 勢子