中本葬祭ブログ

葬儀の歴史を振り返ってみましょう。

2019/09/09

こんにちは。

ありがとうで送るお葬式®

家族葬のウィズハウス新宮・ベルホール中本・ザ・スランバーズガーデン・そうそうの郷太地を運営しております中本葬祭の裏東です。

 

現代の葬儀の主な流れとしましては、通夜・葬儀の後に出棺となり、火葬というのが一般的ですが、

大切な人を弔うということに関しては、今も昔も変わらないかと思います。

とはいえ、今と昔ではその弔いの方法も随分と変化しながら現代の形になりました。

今回は、日本の葬儀の歴史について振り返ってみましょう。

 

弥生時代頃の葬儀事情について(紀元前145世紀頃~3世紀頃)

古くは現代のような式典というよりは埋葬が弔いの形であったようです。

縄文時代頃には、屈葬という埋葬方法が行われていました。

屈葬とはそ漢字で表すとおり、故人の身体を曲げた状態で埋葬されることです。


屈葬を行っていた理由には諸説あるようですのでご紹介させていただきます。


・墓穴を掘る労力を少しでも少なくするためという説
・死後の世界で安らかに眠れるようにとの思いから安楽の姿勢を取らせたという説
・母親の胎内にいる胎児と同じ体勢を取らせる事で亡き人の復活を願ったという説
・死者の霊が浮遊し彷徨う事のないようにという思いから動きにくい体勢にしたという説


屈葬されているご遺体の中には、石を抱いた状態で埋葬されていたり、縛られたりしているご遺体が多いことから、死者の霊が浮遊し彷徨う事のないように、というのが最も有力な説ではないかとされています。

弥生時代になると、身体を伸ばして埋葬する伸展葬が行われるようになりました。縄文時代でも一部特権階級には伸展葬が許されていましたが、弥生時代では庶民の間でも伸展葬が広く一般化しました。

伸展葬に変わった理由はいくつかあるようです。

わざわざ身体を曲げる時間的余裕がなくなったことや、そもそも死者が生き返らないことがわかったからだとされています。また、この頃からお墓が見られるようになったとされています。

これは、稲作が伝来したことで農耕が発展し、その近辺に居を構える定住化が進んだことに起因しています。

弥生時代以降、大陸から文化が流入してきた影響もあり、土葬が強く根付くことになります。

 

古墳時代の葬儀事情について(3世紀頃~7世紀頃)

 

古墳時代になり、支配階級の埋葬方法が大きく変わりました。

古墳と呼ばれる大型のお墓が全国的に広がりました。特に古墳時代の前半期は極めて大型の前方後円墳が数多く作られ、その多くはたった一人の豪族を埋葬するためだけに作られました。棺は石室と呼ばれる部屋に納められ、棺のほかに副葬品として銅鏡や碧玉製宝器、太刀、剣、鉾などが一緒に埋葬されています。

その一方で、庶民の埋葬に関しては特に変化はなく、土葬が主流だったようです。

飛鳥時代の葬儀事情について(592年~710年)


聖徳太子が618年に自分のお墓を建てたという記録があり、その墓も古墳です。

しかし、646年に出された「薄葬令」によって、古墳の大きさや築造にかける期間、携わる人員等まで細かく制定されました。これにより古墳時代初期のような大型の古墳は作る事が出来なくなりました。
701年に制定された大宝律令以降は、三位以上の身分をもつ者のみ古墳を作ることが許されました。

この頃、庶民に対しても埋葬に関する規定が定められました。庶民は一定の範囲の葬所を利用し、複数の場所に散埋することは許されなくなりました。この規定が現代のお墓の起源と言えそうですね。

また、初めて火葬が行われたのがこの飛鳥時代です。700年に道昭という僧侶が火葬にされたという記録が残っているほか、702年には持統天皇も火葬にされています。一般的には火葬は広まらず、あくまで特権階級の間でのみ行われていたようです。

奈良時代~平安時代の葬儀事情について(710年~1185年)

奈良時代に入ると、首都の内部にお墓を作ることが禁止されました。

そのため、平城京の敷地内からは当時のお墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの方針は変わらず、天皇や貴族といった特権階級のお墓であっても京の外に作られました。

一方、庶民のお墓は飛鳥時代と変わらず、一定の場所が設けられており、そこに埋葬するように定められていました。このほか、『梧庵漫記』という記録には、京の周辺の山野や河原が庶民の葬られる場所だった、という記述が残されています。

平安時代には、高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました。1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年の堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。仏教の教えにおいて、悟りを開くものがいない時期を意味する「末法」だといわれていたこの時代、天皇や貴族などの特権階級の人々は、弥勒の浄土である高野山に納骨されることを願っていたようです。

那智勝浦町や新宮市では、現代においても「女人高野」と呼ばれる妙法山阿弥陀寺様に、遺髪を納める「おかみあげ」と呼ばれる慣習が残っております。正にこの「荒野納骨」こそが「おかみあげ」の源流と言えそうですね。

 

鎌倉時代~室町時代の葬儀事情について(1185年~1573年)

鎌倉時代になると、浄土宗や浄土真宗といった鎌倉仏教が一般的に普及しました。

その結果、火葬も広く利用されるようになりました。

しかし、火葬が広まったとはいえ火葬場が同時に整備されていった訳ではなく、また火葬技術自体も未熟なことから、ご遺体を完全に焼却することが難しかったため、土葬と火葬のいずれの埋葬方法が長らく続くことになります。また、鎌倉仏教が広まり、仏教の死生観も一般的に知られることとなりました。こういったことから、本格的な葬儀が一般的に行われるようにもなりました。

室町時代では、応仁の乱以降に寺院の境内に墓地を設けた記録が数多くあります。京中寺院における埋葬は相変わらず禁止されていましたが、それ以外の阿弥陀寺や知恩寺に対しては、特例として境内への土葬が許可されました。住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立てて追善供養を受けたい」という願いの結果であり、これが現在の寺院墓地の始まりとなっています。

江戸時代の葬儀事情について(1603年~1868年)

江戸時代でも火葬、土葬いずれの埋葬方法が取られていたようですが、江戸では土葬が主流の埋葬方法でした。

これにも諸説あるようですが「ご遺体でも親の体を焼く行為は親不孝に当たる」という儒教的な考えが広がってきたという説。また、特に人口密度が高い江戸では、火葬によって出る煙と臭いに悩まされる人は多かったとされています。こうした理由から、火葬よりも土葬が主流だったようです。

また幕府はキリスト教徒を完全に弾圧するため、檀家制度という国民を強制的にどこかのお寺に所属させる制度を設けました。これにより、葬儀やお墓は全てお寺で管理されるようになり、日本の葬儀が仏式が主流となりました。

 

いかがだったでしょうか。今回は江戸時代までの葬儀の歴史について振り返りつつ

ご紹介させていただきました。今回ご紹介させて頂いた内容は、まだまだ断片的なものではありますが、

こうして振り返ってみますと、現代の残っている文化の始まりがこのあたりだったのかななどと思いを巡らせることも出来ますね。

また、明治時代や大正時代の葬儀の歴史などについても触れさせていただきます。

 

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この記事の著者:(株)中本葬祭/美粧企画部 係長 裏東 勢子